マイケル・サンデル氏の「能力主義から脱し労働の尊厳を取り戻すべきだ」というインタビュー記事(2025年1月18日付日経新聞朝刊)を目にしました。
どういう意味でしょうか?
みなさんはすぐに理解できましたか?
私はよく理解できませんでした。
わからないなりに思い出したのが勅使河原真衣氏が書かれた『働くこと 「能力主義」を超えて』です。
そもそもお金にしても食料にしても無尽蔵にあれば問題ないものの、実際には限りがあります。そのために「分ける」という行為がどうしても必要になります。
そうなると気になるのが「分け方」です。
あなたならどう分けますか?
例えば、年齢によって分けますか?
年齢の高い順に?あるいは若い方に優先的に?
もしくは身長順?あるいは体重順?
どのような分け方にしても、貰い分が少ない人から不満が出てくるでしょう。
それでは、全員に同じ量を分けますか?
そうだとしても、自分とあの人が同じことが納得できないという不満が出てくるのではないでしょうか?
昔は権力を持った人が強制的に決めたり、あるいは生まれによる身分によって決まったり、何となく丸く収まってきたのではないでしょうか。
生まれですべて決まるのは不公平だということで生み出された「分け方」、それが「能力」だと勅使河原真衣氏は書かれています。
何となく、能力が高ければアウトプットの質・量ともに素晴らしく、よって貢献度も高く、多く貰っても当たり前だと思えてきませんか?
今の世の中はまさにそうなっているのではないでしょうか?
頑張れば誰でも能力は伸ばせるのだから能力で分けるのは公平だ、多く欲しければ自分が努力すればいいのだ、と何となく納得していませんか?
環境によって誰でも変われる、成長できるという「環境決定論」が広く支持されているということでしょう。
その考えが生きづらい世の中にしていると勅使河原真衣氏は主張されています。
以前のブログで『運は遺伝する』を取り上げました。
その中には、
人間の遺伝と環境の相性(交互)作用によってつくられる
とありました。
能力も決して個人の努力だけでどうにかなる、とは言い切れないのではないでしょうか。
それなのに全てを個人の努力のせいにするのは無理があるし、生きづらい世の中になってしまうということでしょう。
勅使河原真衣氏は組織論的脱・「能力主義」の土台は、
自分を自分として生きる人それぞれを「いいね」と組織が受け入れ、組み合わせの妙によってどうにかこうにか「活躍」してもらう
ことだと提唱されています。
この頃よく言われる「多様性」に相通ずるものがあるのではないでしょうか。
東日本大震災の後だったでしょうか、よくTVで耳にした金子みすゞさんの詩「みんな違ってみんないい」という世の中になるように、何が出来るのかをしっかり考え、行動していきたいものです。